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C・Sさん

1、私達両親が、息子【K・Sさん】のHIV感染を知った当時、マスコミやテレピのニュースなどで国民にはエイズという病気が当然いやなイメージの病気と映り、強い偏見を生んでいました。私達家族にとっては血友病とエイズという二重の病気との闘いと、この偏見との闘いのため、精神的にも圧迫され、楽しいはずの我が家にも暗い重圧がかかり、いつも親として不安な毎日を過ごしました。テレビや新聞をいつも隠したりする日々を過ごすのは大変だったのです。

 そんなある日、毎日新聞の夕刊だったと思いますが、紛れもなく政府広報の記事に「エイズにかからないようにするには、ハイリスク集団と付き合わないようにしましょう」と書いてありました。忘れもしません。この広告を見て私の心はドキッとしました。国ははっきり差別や偏見を助長するような広告を出しているではないか・・・人知れず隠れて闘病している患者、家族を切り捨てようとする政府の政策に何とも言いようのない怒りが込み上げました。この広告は全国民に向けての広告欄でした。当時のハイリスク集団の中には血友病患者が含まれていたのは事実です。これは絶対に許せないやり方です。

 このような日々の中、本人にHIV感染の告知など出来るはずはありません。自分がエイズだなんて知ったらと思うだけで、親としてはその先は途方もない暗闇の中へ息子を突き落とすような残酷な告知はとても出来なかったのです。

 それでもテレビなどで知っていたのでしょう。中学一年生頃、彼は私にきいてきました。「俺は大丈夫なんかなー」と。私は、まだ出来そうもない告知なので、瞬間「この病気は子供にはかからないのよ」と言ってしまって、彼はそれを聞いてホッとしたように「そうー」と気持ちが軽くなったように「よかったー」と言ってそれ以来その言葉を信じ込んでいたようでした。

 やがて少しずつマスコミにも反省の色が見え始めましたが、社会ではエイズが悪い冗談の中の一番おもしろいネタになってしまいました。この偏見の恐ろしさに国は何か手を打ってくれたのでしょうか。最近でこそNGOやボランティアの方々、我々患者組織の中から、やっと差別や偏見を無くしてエイズを正しく知ろうとする動きや活動が活発になってきましたが、国は積極的に反省して正しい活動をして欲しいです。

 国は、血液製剤の件で我々をだまし、エイズの危険性を隠していたことなど、いろいろな事実が後になって分かってきました。我々は本当にだまされていたのだ。悔しい。悔しい。なぜ我が子が死ななければいけないのか。悔しい。持って行きようのない悔しさばかりです。ずっと前からアメリカの情報が伝わっていたはずなのに、厚生省やエイズ研究班という名ばかりの医師や薬品メーカーの利益追求のため、正しい情報がもみ消され我々に知らされなかった。この情報が正しく伝えられていたならば、血友病の患者、家族は自分たちでそのときの治療や薬を選べたはずです。また、厚生省にも対策を促すため願い出たはずです。こんなことはあってはならないことです。
 

 

2、息子は、高校3年生(1992年)の春からCD4が2桁に下がり始め、秋には急にひと桁になり、その年の9月ころに関西医大付属滝井病院に入院の申込をしました。ところが、HIV感染者を入院させたくないためか、病院からは自宅で待機するよう言われたまま3、4か月が過ぎました。その間、学校に行かせるのも心配で出来るだけ無理をしないように言い聞かせておりましたが、彼としては、大学受験を目前に控えて勉強しないといけない時期に、一向に良くならない自分の身体にとてもイライラした毎日を過ごしていました。

 年末になって息子は発熱し、知り合いの方に手を尽くしてもらって、翌年(1993年)1月にようやく関西医大付属洛西ニュータウン病院に入院の運びとなりました。

 HIV患者は、病院にて診察を受けるにも相談するにも何か堂々と受けることができず、人目を避けて特別の日に設定された時間帯の約2時間くらいの間に受けておりました。今思うと、どうして何か悪事でもしたかのように遠慮して通院しなければいけなかったのでしょう。入院中も病院に対していつも気兼ねしながら生活を送っていました。私は個室の差額ベッド代を負担しておりましたが、ほかのHIV患者さんの中には差額を負担していない方もおられ、おかしいと思っていました。でも、それすら病院への遠慮から言い出せなかったのです。

 このように我々を遠ざけるような医療事情に対して国は何をしてくれたのでしょうか。患者にとっては一般社会の偏見と闘うだけでもつらいことなのに、医療機関から見捨てられるようなことは耐えられません。国はこのような病気が出てきたら、断固とした態度で拠点病院を決めて医療従事者を指導すべきと思います。

3、彼は、入院以来ずっと高熱(40度以上)が続き、薬を多く飲み続け、苦しい吸入や検査で頭髪も抜け、つらい毎日でした。主治医からは非定型抗酸菌症と言われ、もう命は覚悟しておくように言われました。

 熱が落ち着くと、彼は受験のことが気になり、落ち着いて体を癒す気持ちになれなくてとてもイライラした毎日を過ごし、発狂寸前の状態で、「何で入院ばかりなんや。これからが人生の一番いいときなのにどうしてか。」と私にせまることもありました。

 そんな状態の中で、やはり今告知しないと余計に精神的にも参ってしまうと思い、主治医とも告知の件で相談していた矢先、彼は「俺はエイズなのか。」と私に聞いてきたのでした。私は声にならなかったと思いますが、うなずいて「そうよ、ごめんね、許して。」と彼に対してすまない気持ちで告知をしました、

 彼は「そうだったのか、やっぱり。」と言って、泣いている私を慰めて「大丈夫や、泣かんとき。」と言ってくれました。「兄いちゃんは?」と彼がきいてきたとき、私はどう言おうかと迷ったけど、「ごめんね、お兄いちゃんはちがったのよ。」と言ったら、「よかったなー、お兄いちゃんを大事にしいや。」と言ってくれたのです。

 また、「お父さんやお母さんも検査しときよ。」と私逵のことまで心配してくれて、私の手を握り締めて「大丈夫や、もうええ。何か変やけど不思議に聞いてから胸がすーとした。」と言いました。それ程いつも不安と不信でイライラした日々を過ごしていた状態だったのかと思うと胸が締めつけられました。

 私も、告知をしたその日は何か部屋の空気が変わったような気がしました。告知後、彼は男らしく私の前ではつらさを隠して明るく振る舞うようになり、私に気を遣うほどになりました。

 

4、それからはHIVと向かいあっての治療の毎日でした。でも反面彼の心の中を思うとこれからの重圧が彼の方へかかってしまったような、何かこちらが軽くなってかえって余計彼に全部重荷をかけてしまったような後ろめたさが消えませんでした。

 一人残された病室で彼は何を考えていくだろうかと考えると、つらくて家には帰れず、告知後は病室で

20日間ほど泊まり続けました。

 また、友人のお見舞いも断り続けて、誰にも言えないこらえるつらさを見ていると、私には想像もつかない彼の芯の強さや、優しさなどが見えてきてとても崇高な人間の心が感じられました。19歳の我が儘な息子がとても立派な一人の大人の男性として成長したのだなあと感心しました。

 でも、時々は心は揺れ動き、友人は大学合格や浪人生で勉強中で連絡も取らず、彼は一人悶々と病室で過ごしました。

 国の無責任な無策のため、また、薬品メーカーの利益追求のため、いわれのないこのような病気になり、青春の一番楽しい時期をベッドで一人過ごすことは余りにもむごいことだったと、思い出すと涙が出るのみです。

 人退院を繰り返した約1年後、1993年の年末になって少し体調が良くなったので、外泊できるようになり、翌年1月には退院できました。でもお腹は大きく腫れ、呼吸が苦しそうで、はた目にはとても苦しそうに見えましたが、本人は苦しくない、苦しくないと言ってくれました。

 約3か月間、家で過ごすことが出来ましたが、この3か月が彼にとっての凝縮された大人の人生だったような気がしました。今まで注意されてもしなかったことや部屋の整頓や食事のリズムもきちっと直り、何でも素直にきいてくれるようになり、何かこのまま養生していたら治ってくれるのではと、とても期待が持てるようになりました。

 大学受験に最挑戦ということで自習室へ毎日送り迎えして勉強をしに行くようにもなりました。呼吸は息苦しそうでしたが、頑張って毎日勉強していました。

 3月末になり、同じ病院でお丗話になったHIV患者の方の訃報が入りました。その日は私か留守だったので、彼がその電話を受け取りました。それ以来彼はとても塞ぎ込むようになり、とてもショックを受けた様子でした。

 4月5日が彼の20歳の誕生日で、その翌日に再入院をし、約1か月後の5月3日に、最後は脳内出血を起こしてこの丗を去ってしまいました。最後は内臓はすごく腫れ上がり、体に水がたまりむくんで尿も出なくなり、寝返りも打てなくなりました。最後まで「痛いか」ときかれても「痛くない」と答え、医者も不思議かっていたようでした。痛みを自己暗示にかけて消していたように思えます。3か月間退院していたとき、一人だけお見舞いにきてもらった友人に会って話をしたとき、そのような事を言っていたと聞きました。また、その友人が「彼は今僕達とは違う偉い哲学者みたいになった」と後々彼の高校の教師に話していたと聞きました。

 告知後、彼はキリスト教の牧師さんに会いたいと言い、会ってお話を聞いてから、毎日少しの時間にお祈りもしていました。とても崇高な死でした。

 

5、私は主人と共にブティックを3店舗経営しており、仕事は忙しく、仕入販売を中心になってしておりました。当時、息子の看病のため、仕事をやめざるをえなくなり、不況も手伝って店の経営も大変でした。また、人手不足で私か抜けた穴を埋めるのも容易ではありませんでした。

 また、家の方も現在87歳になる祖母がおり、放ってはおけず、看病をしながら店のこと、家のことと大変な日々を過ごしました。彼は自分のことより店に行け、店に行けとよく私に言ってくれました。とても店のことが気になって自分のために店が不況になるのがいやだとよく心配してくれました。皮肉なもので、彼がいなくなった現在は、店も人がやってくれるようになって時間が持てるようになり、彼のために何かしてやれることはないか、そればかり考えてしまう毎日です。彼のまだ元気なときに今のように時間があればもっと看病してやれたのに・・・。

 今では残されたHIV患者の為に役立つ事はと考え、依頼された講演用の原稿を書いたり、患者会の手伝いをしたり、カンパをしたりして、頑張っています。

 私達は、医師からもう遠くない彼の死を告げられていましたので、彼には憎むべき相手のことを余り話しませんでした。それは人を憎んで死なせたくはなかったからです。満20歳の誕生日から約1か月後、これからやりたいことが一杯で今からというときに本人にはとてもとても申し訳ない気持ちで一杯です。国や製薬メーカーが防げた病気にかかってしまい悔やんでも悔やみ切れない20歳の死でした。

 彼は家業のブティックをしたがっていました。おしゃれで洋服が好きで会社を大きくして自分も社長になるんだといつも言っていた。

 出来ることなら彼を返してほしい。

 これが今の私の気持ちです。








 

 

6、当時これらの事件にかかわった国、医薬品メーカーの方、エイズ研究班の一部の医師の方は、自分たちの息子や家族が血友病患者だったらどんな手段を選ばれたのかお聞きしたい。「これで良かった」と言えるのか。

 エイズの予防ばかりに目が行って、当時ハイリスク集団と呼ばれた血友病患者や男性同性愛者の方を切り捨てようとした方針は、結果的に多くの感染者や、偏見のために国民一般に潜在感染者を生みました。国や薬品メーカーは事実を認め、一つの事件として罪を認め我々に謝罪して欲しい。また、処分があいまいで軽いものだったら、これから先このような事件がいくらでも起きていくだろうと思われます。

 この件にかかわられた多くの知識人はもっともっと慎重に先に起こるべき状態を想定して策をきめるべきであって、決して利益追求の姿はあってはならないと思う。利益を優先した姿は必ず後々何かが起きる。同じようなことが起きるようでは、犠牲になった息子や他の患者にも申し訳ないし、貴重な死が浮かばれないと思う。

 どうか裁判官の方々へ私達の体験を通してこの気持ちを理解して頂きたいと思います。

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