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2014年  S.H.さん

 息子は、昭和46年7月28日に何の心配もなく元気に生まれました。本当に我が家の希望でしたが、ヤンチャに動くようになると、あっちこっち青アザを作るようになりました。〝おかしいな、おかしいな〟と思いながら、二才半頃に病院に行くと、血友病ですと言われました。言われましたが、何の事か判らなかったし、先生から説明もなく、病院の帰りに子供をおぶって本屋さんに行き、立ち読みで本を調べました。〝遺伝的な病気で血が止まりにくい〟と書かれているのを見て、事の重大さを知りました。『これからこの子とどうして生きて行けばいいの』という思いで、家に帰っても主人にすぐには伝えられず、一人で悩みました。

 でも、だんだん子供が大きくなってくると出血も増え、精神的に私一人で抱えられるわけはなく、主人にも話して、それからは親子で病気との闘いでした。昼間は忘れて遊んでいますが、夜になって〝さて、寝ましょうか〟という時になると、「ここ痛い」と言い出すのです。病院では、先生や看護婦さんからの心ない言葉に落胆して帰って来ることも度々でしたけれども、何とか障害を少しでも残さずに成人させたいという思いで必死でした。しょっちゅう膝とか手とかポンポンに腫らし、そのたびに病院へ連れて行って製剤を打ってもらいました。

 幼稚園から高校まで私が送り迎えをしました。高校を卒業すると、主人が電気関係の仕事をしていたのと、ちょうどパソコンが盛んになっていたので、その専門学校に進みました。その頃には、私はもう息子が感染していることが判っていましたから、状態が悪くなったら、別に社会に出て働かなくても、主人の手伝いでもすればいいわと考えて、「あんたの好きな事をすればいいよ」と言いました。

 息子の感染については気になっていましたが、元気で飛び回っていたので大丈夫かもしれないと思っていたのです。でも、中学生の頃、自己注射を教えてもらった別の病院で、「お母さん、覚悟しておられたほうがいいですよ。やがて悪くなる可能性がありますから」と言われました。〝やっぱりうちの子もそうなのか〟と思いながら、いつも診てもらっていた主治医にも尋ねました。すると、検査は何度もしていたはずなのですが、先生は「大丈夫ですよ」としか言わなかったのです。その時に本当の状態を伝えてくれていたら、考え方を変えた生き方が出来たのではないかという気がします。

 息子は、専門学校に入ると車にも乗るようになり、楽しくて楽しくて一番自由に動けた時期だと思います。卒業が近づいたので「お父さんの手伝いする?」と聞くと、「ぼく、就職決めてきたよ」と言われてビックリしました。パソコン部品の会社に入り、〝勤まるかなあ〟と思いながら見ていましたが、一年ほど経つ頃からおかしくなってきて、入院しなければならなくなりました。検査をしたら、もうCD4がゼロという状態でした。それまで主治医の先生は何も言わなかったのです。感染しているとは判っていたものの、まさかゼロになっているなどとは思いもしませんでした。

 

 一回入院してしまうと身体も動かさないし、食べられないし、ドンドンドンドン悪くなって、もう勤めは続けられないと思うようになりました。会社は何も知らないので、社長さんは〝治ったら来て下さい〟と言ってくれましたが、息子には「どうにでもなるよ」と退職届を出させて辞めさせました。

 

 平成7年、桜と一緒に23才で亡くなるまで、息子は病院を出たり入ったりでしたが、病院のご飯はいやだと言うもので、私は、昼の食事を作って届け、しばらく一緒に居て、家に戻って夜の食事も作って届けるという毎日を二年間続けました。ちょうど新聞紙上にはHIVの事ばかり出ていて、血友病即HIVという書き方でした。息子も薄々気がついていたようでしたが、私の口から感染の話は伝えられませんでした。本人はだんだん衰弱し、若いのにプライドも捨てて母親に何でも見てもらわなければいけないという状況になり、とても辛かったと思います。

 高い熱があって、下血がひどく、鼻血もすごく出て、落ちている物も拾えない状況でした。亡くなる一週間くらい前には、「お母さん、ぼく、お母さんたちの面倒見れんかもしれん」と言い出しました。私は、『食べられる物を食べて、一日でも元気でおってくれたらいい』と思っているのに、「そんなあとの話、やめて」と応えたのですが、向こうも涙ぐんでいるし、私もあっち向いて泣いて、あの時は本当に辛くて辛くてたまりませんでした。

 

 ある日、夜の十二時頃になり、「お母さん、帰るね」と言うと、子供が「泊まっていけば?」と言いました。でも、その日は帰ったのですが、次の日の昼に病院から電話がかかってきて、すぐに駆けつけた時には、もう息絶えていました。今でもそれが本当にすごく悔やまれて、「泊まっていけば?」という言葉が頭から離れません。

 

 息子からは、〝お母さん、入院していることは友達には絶対言わないでね〟と口止めされていました。この場になっても気遣いしていた息子を感染から守ってあげられなかった愚かな親でした。今になってみると、〝私って本当に馬鹿だった、あの薬さえしなければ〟と後悔しますが、少しでも関節が悪くならずに大きくすることが親の役目と思っていたのです。何もしてあげられなかった無知な親は、息子には〝健康で産んであげられなくて、心からごめんね〟としか言えません。

 息子が亡くなり、私は気持ちがおかしくなって、家の事も出来なくなりました。それでも、主人に助けられて少しずつ落ち着きはじめた頃、その主人が急に亡くなってしまいました。一人になった私は、またどうしようもなくなって、死のうとして東尋坊へ行ったこともあります。今は、主人と息子の供養をしなければいけないと思って、人から何を言われてもいい、開き直って自分が大事という気持ちで生きています。

 今でも夜寝られない時には、〝私はいつまでこうして生きていなければいけないのかな〟と思います。一人でいると、小さな悩みでも広げてしまって自分を孤独にしてしまいます。眠れないまま朝になると、〝ああ、今日も明るくなってきた〟と思いながら、散歩したり図書館に行ったりして気持ちを変えないと一日が始まりません。子供に悪かったという罪悪感は決して消えないので、私は、一生背中に十字架を背負って生きて行かないといけないのだなあ、神様に試練を与えられたのだなあと思っています。

 

 琵琶湖のほとりの路線を走るたびに、あの場所で血友病友の会のキャンプをしたことを思い出します。同じ血友病の子供さんと遊んで騒いで、優しい先生が居て、何かあればすぐに注射してもらえる状況の中で過ごした、あの子にとって一番いい時期だったのかな……。そう思って通る時もありますし、〝ああ、また琵琶湖へ来たわ〟と顔を背ける時もあります。まだまだ病気と闘っておられる方々が、希望を持って生きていける社会になることを願いたいと思います。
 

 

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