患者の声
O・Kさんのページ
O・Kさんのプロフィール
・1943年 大阪生まれ。
・血友病 中等症。
・小学校低学年の頃から鼻血がひどく、膝にもよく出血して病院に行ったがなかなか止血しなかった。
10歳の時血友病とわかった。出血が原因で関節が不自由になった。
・1986年 44歳でHIV感染を告知された。
・父親が経営する工場(機械部品検査と修理)で働いた。後に金細工の技術を梅田の学校で学び、貴金属職人として仲間の工房や自宅で仕事をした。
・血友病による出血で外出できない時は、自宅で細工した品を母親が代わりに届けた。金細工の腕は確かで、専門学校で教えていたこともある。
・ラジコンが趣味で、体調がよい時には木津川の河原で仲間の人たちと飛行機を飛ばして楽しんでいた。
・ラジコンが川に落ちた時、足が不自由なので追いかけることができず、悔しい思いをしたこともある。
・1993年 51歳で死去。母親に薬害HIV訴訟を継いでほしいと言い残して亡くなった。
O・Kさんが残したかったもの
記憶の確かな内に少しでも書き残しておこう。
後にこれを読んでくれる人に許しを得ておきたい。平がな誤字脱字が多いので非常に読みずらいと思うがまあガマンして読めたら読んで下さい。
私がHIV感染者だと告知されたのは、今から7年以上も前の1986年3月?日だった。この年は、自分自身にとっても世界的に見ても歴史に残る様な事件が2件もたて続けに起きた。1つは、アメリカの宇宙船チャレンジャーの爆発。もう1つは、フィリピンのマルコス打倒。
その最中に自分は原因不明の体調の悪さのため、ホームドクターのI先生がK大学病院のY先生を紹介するから入院して検査を受けてきなさいと言われていて1985年の暮れ頃にK大学病院に入院。イロイロ検査の結果結局あなたはHIVに感染していると主治医の先生から告知された。
突然告知されたときのしょうげき。これを読んでくれている貴方方に想像できますか。
私は告知を受けたしゅん間目の前が真っくら頭の中が真っ白になり何も考えられなくなった。気持ちがおちついてからも何一つ前向きの気持ちは持てなかった。なぜならその当時はまだ治療法もなく陽性の告知を受けたと言う事はイコール無実のツミで死刑判決を受けた様なものだった。(他の人は知らないが)少なくとも自分はそう思った。
当時はまだ今日のように治療する手だてがまだなかったのだから当時はそう思って当然と思っていた。
そして密に自分に苦痛を与えず、そして両親や姉や妹弟たちにも悪い影響を及ぼさずこの世から自分をまっさつする方法は無いものかとそんな事ばかり考えて居たが、そんなつごうの良い方法は結局なかった。
誠心誠意治療して頂いている先生方に対しても大変に失礼な事と思える様になる迄にそうとう長い時間がかかった。
そしてその間、職場復帰し、いっしょううけんめい仕事に打ち込んでいてもやはり頭の中は病のことばかり。それでも働かなければ最低生活もいじ出来ない。
そうしている間に数年が過ぎた。そして今から数年前の冬に過労から体調をくずし結局又K大学病院に入院するハメになった。
自分ではかなりひどい状態だと思って居たし実際入院してからかなりの間いしきがこんとんとして何も解らなかった。
かなり長い間酸素吸入を受けた。そうとう長い間息ぐるしかった。しかしO先生はじめたくさんの先生方のけん命の治療で一応回復はしたものの気力も体力もなえていた。
とても職場復帰出来る様な状態では無かった。
なぜ自分だけがこうなんだろう。くやしさや腹立たしさだけが日に日に大きくなっていった。
それでも、なすすべもなくその日その日を送っていたが、職場からは体を完全に治して帰って来てやと言ってその間も給料をずっと振り込んでくれて居たが、復帰のめども無いのに甘えてばかり居られないのでとにかく
(亡くなられたので未完となっている)