


遺族の声
メモリアルキルトとは
メモリアルキルトは、愛する人をHIV感染症/AIDSで亡くした家族や友人たちの手によって、 その人への思いを、生きた証を記録しようと生まれたものです。90cm✕180cmと人が横たわれる大きさの布に、 亡くなった人の愛用していた品々などが縫いつけられ、メッセージも思い思いに綴られています。 差別と偏見により人一倍のつらさや苦しみを背負った短い人生……その中で一生懸命生きた事をキルトはそっと語りかけます。
赤瀬範保さん 愛のキルト
1991年4月15日赤瀬さんのご自宅で、自らの手により制作されたキルトです。
米国のメモリアルキルト組織NAMES PROJECTから200枚ほどのキルト(一枚の大きさ90cmX180cm)をお借りして、1991年春に日本の主要都市9都市を巡る≪メモリアル・キルト・ジャパンツアー≫計画の実行委員会組織として発足したのがMQJ(メモリアル・キルト・ジャパン)です。
そのツアーが京都からスタートし、福岡展が終了し次の広島展の間に、この「愛のキルト」は作られました。赤瀬さんは「若い血友病者の仲間が相次いで亡くなってゆく。我慢ならない。どうしても伝えたい」と中国の詩人・寒山の漢詩を選びました。「若き優秀な人が早く逝き、どうしようもないような年寄りが長生きしている」というような意味合いの一節が気に入ったと。全体のデザインは曼荼羅をイメージ。あらかじめ鉛筆で下書きされた寒山詩を、金泥を用いて筆書き。ドロドロした金泥はなかなか筆が進まず、描くというより彫ってゆくよう。最期の3行ほどを残したあたりで手の震えが収まらず、いったんベッドに。それでもすぐ戻ってこられ、「今書かねば次は無い」と書き終えました。
その後すぐ絵皿を用意し、慣れた手つきで手の甲から自らの血液を採り、赤い顔料に混ぜると、太筆で上部中央に一気に「愛」を、そして寒山詩の合間に「般若波羅蜜多心経」と配し、ど真ん中に「心」心臓を表す象形文字を入れ、下段に立原道造の詩の一節「風よ雲よ伝えてよ」と記しました。「愛」の文字が熱い太陽のようでした。
その二日後、広島展の会場にお連れ合いと共に来られた赤瀬さんは「このキルトたちの仲間になれた事、ありがたい。もう何も言うことはない。出来るだけ長生きをしたい」と話されました。あの時の青空のような笑顔忘れない。
その2カ月後、赤瀬範保さんは不帰の人となられました。 合掌
メモリアル・キルト・ジャパン 齋藤 洋
ゴールデンロード バイク青年のキルト
<ゴールデンロードを走る息子へ>
宇宙を飛び立った息子に一番させてあげたいのはバイクに乗せてあげたい!!
思いっきりスピードをあげてとばしていいよ!
免許をとったのに、一度も乗れなかったね。今頃美しい星空の中でギターを弾き、
どこかで腰をおろしてこちらを見ているかも知れない。
涙の宝石、十字架、感謝の言葉。
野球少年のキルト
私が初めてキルトと出会ったのは、1997年の遺族の交流会でした。 亡くなった方の身につけていたものや、大好きだったものなどを、一枚の布にひと針ひと針、 心を込めて縫いつけられていました。キルトの話をして下さる時は、大切な宝物のように、 また本当にキルトが息子、 夫であるかのように、いとおしさとやさしさがあふれていました。
「忘れない」絶対に忘れないよ、あなたのこと……あなたがどんなに頑張ったか、あなたがどんなに闘ったか、 あなたがどんなに悔しかったか、キルトは静かに強く伝えてくれます。
いつの日か私も息子のキルトをとの願いが叶い、メモリアル・キルト・ジャパンのかたの力をお借りして、 野球の好きだった息子のキルトを作ることができました。初めて息子の服にはさみが入った時は心臓がきゅっとなりました。でも好きだったものに次々と変身していきます。パジャマが野球のユニフォームになったり、Tシャツがボールになっていきました。
息子は9歳の時に発病以来、学校に行けない日が殆どで、家にいる時はこども図書館で借りてきた本を読んだり、漫画を読んだり、 テレビを見て過ごしていました。野球の選手になるのが夢で、プロ野球や高校野球のテレビ番組も楽しみにしていました。
入院中は朝早くスポーツ新聞を買わされに行ったものでした。
家の窓からは、近所の子供達が公園でソフトボールの練習をしているのが見えます。ある日ぽつりと、「僕、野球の選手はやめて、審判にしたよ。」と言いました。その頃の息子は体重が極度に減り食欲もなく、 常に熱に悩まされていました。
この病気は夢まで息子から奪うのか思うと、哀しくやりきれない気持ちでいっぱいになりました。
キルトの中には、虹にむかって大きなホームランを打っている息子の姿があります。大好きだった愛犬、猫たち、元気だった頃遊んだゲームやチョロQ、いつか吹きたいと言っていたトランペットなどに囲まれながら、息子がいます。
息子は13歳で生涯を閉じました。
HIVという過酷な宿命にも、けなげに生きぬいた息子……静かな静かな最期でした。短くても一生懸命生きた事、キルトが伝えてくれたならと思います。そして、二度とこのような薬害のない明るい社会でありますよう、この願いをキルトに託したいと思います。
被害者の会のキルト
あなたの命を無にしない
亡くなった方の生きた証を残したい──
私たち遺族の思いを伝えたい──
そんな願いから「大阪HIV訴訟原告団のキルト」を作りました。
たんぽぽの花を中心に、天使が綿帽子に乗って私たちの思いを世界中に運んでいく・・
あなたの死は決して無駄にしない。
生きたくてもそれが叶えられずに若い命を絶ちきられたあなた――
生きる事の大切さを人一倍、心に思っていたことでしょう。
そして、自分たちと同じ思いは二度と誰にもさせたくないとの願い。
キルトはそっと語りかけるでしょう。



