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2015年  H.Y.さん

 大臣協議で夫の事を話す機会を頂けるという連絡を受けた日、電車に乗っている私の前に一組の老夫婦が座りました。いつもよく目にする光景ですが、その日は、ふと非加熱製剤によるHIV感染がなければ20年後私たち夫婦も前の席の老夫婦のように外出をし、笑ったり、泣いたり、喜んだり、怒ったり、と共に年を重ねていたであろうと思わずにはいられませんでした。


 約30年前、結婚して1年程たった頃、新聞やテレビのニュースでアメリカの血友病患者の血液製剤によるHIV感染の事、日本でも血友病患者の中にHIV感染者が出ているらしいという事を見聞きするようになっていました。夫は、すでに血友病患者の友の会などで知っていたようです。不安に感じた夫は、当時の主治医の先生をはじめ製薬会社のミドリ十字にも何度も安全性の確認をしておりました。直接私が耳にしたわけではありませんが、皆一様に感染する確率はほとんどなく安全であるという返答だったと聞いております。それでも当時夫は躊躇しながら震える手で自己注射していたことを覚えています。その時なぜ「打つな!」と言わなかったのか後悔しています。


 日本は、誠実で安全な国家だと思っています。又、日本の企業の作る薬品も同様です。当時夫も私もそう信じておりました。
 

 加熱された安全な血液製剤に切り換えた直後のHIV検査では、夫は陰性でした。二人で幸運を喜んだ事を覚えています。が、6か月後の検査では、陽性に転じていました。夫のHIV感染は、切り換え直前の非加熱製剤によるものでした。あと1ヵ月でも早く安全な加熱製剤が承認されていたらと思うと、さぞ悔しかったことでしょう。

 感染する前に夫は念願の税理士試験に合格していました。これから開業という時期と感染の告知とがほぼ同時期でしたので、1年ほど開業を見合わせていましたが、持ち前の負けん気と学生の頃から病気を決して言い訳にしないで過ごしてきた信念から、税理士として約30年近く日曜日も正月でさえ休まず、健常者の何倍も働き続けました。その甲斐あって、顧客の信頼は厚く仕事に関しては順風満帆でした。機械類が非常に好きで、特にパソコンは早くから仕事で使用していましたので、旅行先や病院にも持ち込んでおりました。何所にいてもパソコンひとつで仕事ができるのが自慢でした。

 

 一方で治療にも熱心で免疫を上げると言われる健康食品は、ありとあらゆる物を試みました。五葉松が良いと聞いて二人で山に探しに出かけたことは懐かしい思い出です。片手一杯のHIVの治療薬も毎食欠かさず飲んでいましたが、HIVと同様に非加熱製剤で感染したC型肝炎は、3度もインターフェロンの治療を試みましたが、消滅することなく肝臓に癌が出来ていました。余命宣告を受けてからも生きる事を決してあきらめませんでした。強い信念を持てば何事も叶えられると夫は信じておりました。それは、不可能と言われたHIV裁判を京レタの石田吉明さんと共に最初から闘ってきたことも夫の自信となっていました。

 平成25年7月2日午後9時37分、願いは叶えられませんでした。目を閉じると死んでしまうと思ったのでしょうか、意識が朦朧とするなかで必死に目を見開いておりましたが、苦しそうに顔をゆがめた瞬間、握っていた夫の手がスーと冷たくなりました。目は見開いたままでした。


 亡くなる3日前まで顧客の所に出かけていました。死の前日まで病院のベッドの上で仕事をしていました。手帳には、9月まで予定が書かれていました。もうすぐ亡くなって2年が経ちますが、毎日何度も夫の臨終の瞬間を思い出します。夫の机もパソコンも着ていたスーツも歯ブラシさえそのままです。今でも午後10時になると「今から上がる」と内線がかかり、「ただいま」とドアが開くような気がします。夫は生きることだけを考えていましたので、私たちの間で死後のことを話すことはありませんでした。「今までありがとう!」と言えなかった事が唯一の心残りです。

 夫がHIVの訴訟でこだわっていたのが、和解後の遺族を含めた恒久対策でした。こうして毎年大臣協議が行われています。和解後約20年が経ち人々の記憶も薄らいでおり、新聞で記事を目にすることも無くなりましたが、患者や遺族にとっては、病気との闘いと亡くした者への無念さが薄れることなく続いています。夫の無念さが少しでも伝わり治療を続けている患者の皆様や後に残された遺族の皆様の為に役立てばと思い本日は参加いたしました。

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