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薬害エイズの被害者は……    感染症新法の問題点と今後のあり方について        和解後30年間の弁護団活動を振り返って

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差別・偏見への取り組み

 

                和解後30年間の弁護団活動を振り返って
 

大阪HIV訴訟弁護団・弁護士 金 喜朝

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 私からは、和解後30年の弁護団の取り組みということでお話をさせていただきます。

 どうして今日私が話すことになったかなんですが、私は、毎月「考える会」の事務所に行って遺族班会議に出席しています。そこで、次の「考える会」の総会で和解30周年の弁護団の振り返りの話をしてもらいたいと言われました。私はその時、あまり良く考えずに「いいですよ」と受けたわけなんですけれども、これは、私が弁護団で枢要な地位を占めていたからではなく、単に頼みやすかったという問題だろうと思います(笑)。そういうことなので、今日は、弁護団の皆さんの中に適任の方が多数いらっしゃいますが、私がお話をさせていただくと御理解いただければと思います。

 遺族は『その扉の向こうに』という書籍を出しましたが、私もその中で、遺族班での弁護団の活動について少し書かせていただいたりもしました。それから、裁判については良く語られたり文章になったりするんですが、和解後の弁護団の活動については、それほど話したり聞いたりする機会はないように思います。私もこの機会に、和解後の活動について再確認できればということもありましたので、少し過去の資料を引っ張り出して、色々見て、お話をさせていただきたいと思います。なお、これからは、弁護団の立場での話ですので、原告や御遺族の皆様からしたら、若干、違和感のある言葉遣いとかもあるかもしれませんが、その点は御容赦ください。また、私はずっと遺族に関わってきたという関係があるので、どうしても遺族の話が中心になって、関わっていない活動については淡白になると思いますが、その点についても御了承いただければと思います。それから、今日は弁護士については、時々間違って「先生」とか言うかもしれませんけど、基本的に「さん付け」で行きますので、よろしくお願いします。

 

 今日は、資料を一枚配布しております。この発表のスタイルは30年前と同じで、紙を一枚置いて、ずっと私がしゃべるということで、パワーポイントは使いません。まず、2です。「和解後の取組は、和解前から始まっていた」です。

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 1996年の3月29日に和解がなされるわけですが、その前、2月14日から16日に弁護団が原告団と連名で、「全面解決要求書」という物を出しています。これは、被告の国と製薬企業に対して作ったものです。この2月14日から16日というのは、ちょうど東京行動があった時です。東京の原弁は、日比谷公園で坐り込みなどをしていました。

 この「全面解決要求書」を見直しますと、真相究明、恒久対策、治療体制の充実、それからエイズ予防法の廃止、遺族弔慰金の支払いということで、和解後の弁護団、原告団の活動につながる取り組みの骨格が、大体この時に出来上がっているということです。改めてこれを読みまして、当時の原告団の中心メンバーの先見の明と言いますか、改めて感服した次第です。ただ、遺族弔慰金の支払いについては、弁護団、原告団が、最後の最後まで求めましたが、結局和解の内容には盛り込まれませんでした。しかし、和解の前、3月7日に裁判所が第二次和解案というものを示しまして、そこで裁判所は被告に対して、遺族に対する配慮を要請しています。

 短いので、原文を読みます。

「悲惨な死を遂げた被害者や遺族の癒しがたい無念さに深く思いを致し、本和解とは別に、被害者への鎮魂慰霊の措置を含め最大限の配慮をされるよう要請するものである」と、これは裁判所の要請です。この要請を受けて、弁護団の、そして原告団遺族班の取り組みにつながって行くわけです。

 次は3です。「被害者全員の和解解決に向けた、未提訴者の『掘り起こし』・提訴」とあります。裁判所で3月の和解に向けて協議を進めていたわけですが、それと並行して、じゃあ、和解が成立した後、どういうふうに訴訟を進めるのかについて協議が行なわれました。その結果、和解の際には、今後の訴訟提起については簡易化し、原則として尋問はしない、いわゆる三点セットですね――診断書、感染検査報告書、血液製剤の使用証明書――この三点セットがあれば和解を成立させるという内容で、裁判所、原告団、被告が同意し、その確認書の取り交わしがなされました。

 つまり、この裁判では、特に新しい法律を作って救済するのではなく、また、行政に申請して和解金を支払うということでもなく、裁判を通じて総ての被害を解決する、そういう枠組みが示されたわけです。1996年3月の時点で、和解した人数は第10次提訴までの71人でした。当時、原告数は238人だったんですが、238引く71の167人は、この時点ではまだ和解をしていませんでした。そして、その他にも、弁護団で提訴準備中の原告予定者の方もいらっしゃいました。何よりですね、まだ提訴をためらっていらっしゃる方、また、提訴をすれば解決に至ることも御存じない方も相当数いらっしゃいました。

 そうなりますと弁護団としては、全面解決のためには、未定訴の被害者、和解をためらっている被害者も和解=解決につなげることが最も重要な任務の一つでありました。これを弁護団の視点から言えば、未提訴者の“掘り起こし”ということになります。では、どういう形でこれを進めて行ったかということなんですが、当時、和解後ですね、原告団、弁護団でも広報をいたしました。それで、被害者の方、あるいは御遺族の方から、原告団、弁護団に連絡が入るということもありました。

 ただ、当時の状況として、HIV感染者が今以上に厳しい差別を受けていました。そういう状況下で、声を上げられない感染者、遺族、家族の方も多数いらっしゃったのです。そこで、今風に言えばアウトリーチという言い方になるのかもしれませんが、弁護団では、当時、全国七つのブロックに分けて地域医療班というものを作り、そこに担当の弁護士を割り当てました。

 それぞれの弁護士が、その地域の医療機関、血友病の治療をしている医療機関、HIVの治療を手がけている医療機関、そういう所へ提訴とか和解とかの手続きについて説明に行きました。その上で、パンフレットを渡して、お医者さんから、もし患者さんの中にそういう被害者がいらっしゃれば、情報提供をしていただけませんかとお願いして回りました。そういう形で地域医療班を作って弁護士が未提訴者を担当するという体制を作りましたけれども、その振り分けも必ずしも厳密ではなくて、私は関東甲信越の担当だったんですけれども、大阪も兵庫も、静岡も滋賀も担当をするように川崎(伸男)弁護団事務局長から連絡を受けて担当したりしたこともありました。

 また、原告団や支援者のつながりで御紹介いただいたら、その被害者の方のお住まいを弁護士が訪問して説明をするということもやりました。それで、提訴するという意思確認ができたら、必要な書類の取り付けにかかったわけです。4月からは、もう弁護団みんなが全国を飛び回ってそういう活動を始めました、過去の記録を見ると、やはり和解直後は新規の提訴者の方がすごく多かったのです。1996年の4月は85人、5月は33人、7月は39人ということで、かなりの方に提訴に踏み切っていただきました。その後は、提訴者数は大体毎月10人程度に落ち着いてきて、さらに徐々に減って行く、そういう状況でありました。

 ここで東京弁護団の話を少しすると、東京弁護団でも同じように新規提訴者の掘り起こしをしていました。そのスタイルがちょっと違い、大阪弁護団では特に支部のようなものは設けませんでしたが、東京弁護団は、北海道、東北、名古屋、九州の弁護団と連携して、新規提訴者の掘り起こしを図っていました。新規提訴者について、東京と大阪の弁護団は情報の共有はしていましたが、それ以上の調整は図っていなかったように思います。私は、先ほどちょっと申しましたが、関東甲信越を担当していたので、この東京弁護団のお膝元に行って、そういう説明をしていた次第です。

 新規提訴者は、年数が経つにつれ、徐々に少なくなっていきました。また、個々の問題については、その都度対応していたのですが、やはり幾つか課題がありました。一つは、HIVとHCVの重複感染の問題です。お亡くなりになった原因が、HIV感染症、エイズ発症ではないのではないかというケースが議論になったことがあります。また、除斥期間の問題もありました。民法では、出来事から20年が経過したら除斥となって、損害賠償の請求は出来ないという規定がります。ですので、感染が判ってから20年が経過したら除斥ではないかという主張が国――被告のほうから出ました。そういった課題も議論を尽くして、提訴者全員について和解に至ったわけです。2011年の4月15日、提訴者全員の和解が成立しました。

 これでもう被害者の方が完全に救済された、和解できたという確証はないわけですけれども、これだけ長い期間に掘り起こしの作業をして、1996年の前から本件については広く報道がされていたので、それでもなお提訴をしないという方は、提訴はしないというよほどの事情があるのかもしれない。いずれにしても、もうこれで終りだろうという判断で、2011年4月の和解をもって、未提訴者の掘り起こし、提訴の手続きは終了いたしました。これによって、弁護団の大きな任務の一つを果たせたと言えるのではないかと思います。

 次は、資料の4番を御覧いただけますでしょうか。「和解後の取組と、弁護団の体制(1997年12月の資料より)」とあります。1996年の3月に和解が成立した後、和解後の体制を検討しました。弁護団では、和解前も、その時々に課題に応じてそれに取り組む班を作り、そこで弁護士が検討するということを繰り返してきましたが、この和解という大きな節目にあたって、これまでの訴訟の判決、あるいは和解に向けたものとは全然別の体制を作ろうということになりました。1996年3月から体制作りをしていたのですが、この1997年12月の資料に出ている形が、概ねその後の体制になったのではないかと思っています。それぞれの班でどういう取り組みが行なわれたのかということをザッと説明します。

 まず、拡大医療班、担当は川崎さんです。川崎さんが医療について直接関わったというよりも、取りまとめをして色々管理をしていただいたということかなと私は理解しておりまして、実際に中心になって取り組みを進めたのが、岸本(佳浩)さん、加藤(高志)さん、塩野(隆史)さん、そういう方々でした。

 まず、医療班の取り組みですが、裁判所の所見、菅(直人)大臣のコメントを受けて、厚労省も和解直後から医療体制について検討を始めました。たとえば、エイズ治療薬の迅速審査であったり、エイズ治療体制の整備であったりです。それらを受けて厚労省と原告団との協議が始まりましたが、弁護団もそれに関わりました。また、ブロック拠点病院体制が始まった後は、弁護団のほうで地方医療班を立ち上げました。この地方医療班とは、レジュメに書かれている七つです。それぞれの地域に担当の弁護士を割り当て、その下にまた班員が居て、取り組みを続けました。この地方医療班の割り振りで、原告、未提訴者の掘り起こしも行ないました。

 その後は、地方医療班の弁護士がブロック拠点病院会議――いわゆる三者協議に参加したり、ACC(エイズ治療・研究開発センター)運営協議会や中央運営協議会に医療班の主要メンバーが参加したりという形で関わりました。ある時期までは、ブロックでの医療相談会にも弁護士が出席することがあったかと思います。

 ③の所に予防法担当として塩野さんと書かせていただいておりますが、御案内の通り、1999年の4月1日に「エイズ予防法(後天性免疫不全症候群の予防に関する法律)」が廃止され、同日、「感染症法(感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律)」が施行されました。薬害エイズ事件は、やはりこの「エイズ予防法」廃止の運動に端を発するものであり、弁護団としても、原告団とともにこの「感染症法」法案の内容を検討して、厚労省に意見を伝えるなどの活動をいたしました。
また、手当の問題についても、たとえば健康管理手当の対象者の拡大やエイズ診断基準の協議等の中央交渉などにも、弁護団として取り組んでいました。これが拡大医療班の説明です。

 次に、「考える会」班というものがあります。これは、今はもうないと私は理解しているのですが、当初、「考える会」班を設けて、たとえば「考える会」の事務所の場所探しとか、そういう形で活動の支援をしていました。その後、「考える会」が自律的に活動するようになって、弁護団で特に班を設けて支援する必要はないんじゃないかということで、不要になったというふうに思います。ただ、この時の「考える会」班のメンバーは、その後、「考える会」の理事あるいは監査役として活動を内部から支える、関わるようになったと私は理解しております。

 次に、遺族班です。これは話すと長くなるのですが、ごく簡単に説明します。先ほどの裁判所からの要請を受けて、厚労省のほうでも、遺族弔慰事業を含めた検討を開始して、原告団も、当時、遺族の被害実態等についてのアンケート調査を行ないました。そして、その結果を遺族班、「たんぽぽの会」でまとめて、三つの項目を東京とすり合わせて国に要求しました。一つは資料館の設立、二つ目は遺族相談会を含む相談事業の実施、三つ目は「薬害根絶誓いの碑」の設立です。厚労省との協議は、主に山西(美明)さんに務めていただきました。先ほど山西さんに教えていただいたところでは、当時、東京は資料館のほうに随分力を入れていて、それに対して大阪は遺族相談会の実施に力を入れていた、そして、東西の要求として両方を国に上げたといういきさつがあったそうです。

 次の遺族班の取り組みとしては、遺族弔慰事業が1997年、和解の翌年から開始されました。これは、厚労省――当時の厚生省の予算が東西について、それを大阪は「MERS(現・MARS 特定非営利活動法人 ネットワーク医療と人権)」、東京は「はばたき(社会福祉法人 はばたき福祉事業団」が運営するという形を取りました。その仕組み作りにおいても、弁護団、山西さんが中心になって関わっていただきました。

 同じ年、1997年の5月から「のぞみの会」が開催されはじめます。これは、東西の原告遺族が合同で行なう遺族相談会です。東西共同の事業というのはあまり多くなかったのですが、私は、東西共同の大成功例がこの「のぞみの会」だと思っております。「のぞみの会」は、27年の間に65回開催され、どの回にも必ず弁護士が弁護団から参加をいたしました。

 三番目は、「薬害根絶誓いの碑」の建立です。これは、厚生省が大変強く抵抗していたのですが、和解の翌年、1997年8月の大臣協議で、当時の小泉純一郎厚生大臣から、建立の意義を認める、実現を図るということを明言していただき、それから大きく話が進みました。ただ、その後も、設置場所について難航し、話が長くなるので割愛しますが、色々厚労省と議論があり、これも山西さんが中心になって厚労省との協議に当たりました。そして、小泉さんが確約をした二年後の1999年8月24日、「薬害根絶誓いの碑」の建立にこぎつけたということです。

 その他にも、被害者遺族の生活実態調査、生活被害実態調査を2001年から2003年の間に行ない、報告書を出すなどしております。


 ちょっと駆け足になりますが、次、四番目、真相究明班です。これは、弁護団による真相究明の取り組みとして、和解後も、裁判の手続きの中で、政策決定に関わった官僚への証拠調べ、証人尋問を行ないました。普通の訴訟では、和解が成立したら、その後に証人尋問を続けるとは、あまり聞いたことがありません。しかし、本件では、地裁の裁判官が特にそれを認めて、元官僚、官僚に対する証人尋問を続けることが出来ました。これは、この裁判の意味からしたら当然という見方も出来るかもしれませんが、通常の裁判手続きと比べると、非常に例外的な事だったと思います。

 また、企業に対する真相究明の取り組みとしては、ミドリ十字の役員に対する株主代表訴訟を弁護団が担当いたしました。株主代表訴訟とは、会社の役員が違法行為などで会社に損害を与えた時に、その役員に対して賠償金を会社に払えと、株主がそういう裁判をやるんですね。これも和解の年の8月に株主代表訴訟を提起して、弁護団の真相究明班が訴訟を担い、その後、2002年3月13日に和解が成立いたしました。旧役員9人が、計1億円の和解金を支払う、そして、会社が薬害事件の調査や再発防止策を取りまとめる、そういう事が和解の骨子とされました。

 その後、真相究明班ではミドリ十字の刑事公判の傍聴なども続けました。そういう所で集められた知見が、その後、薬害エイズとは何なのかを検討、評価するための重要な資料になったと思います。

 五番目の未提訴者班とは、先ほどの提訴者の掘り起こしを主に担当するもので、六番目の個別立証班とは、提訴する際に資料のチェックをしたり、課題が出てきた時に対応するということで、これは、幸長(裕美)さんが非常に丹念に取り組みを続けてくださいました。

 七番目の血液事業法国際会議班とは、血液事業法の制定は主に原告団が熱心に取り組んだのですが、そこに弁護団も関与して、徳永(信一)さんが深く関与されていました。また、この取り組みの一環として、和解のあった1996年の11月2日、3日に、神戸国際会議場で「薬害エイズ国際会議」が行なわれました。これは、二日間で1000人を超える参加者を集めて、世界六ヵ国から薬害被害者などのゲストを招き、成功裏に終えることが出来ました。

 八番目、ビヨンド班、これは運動班なんですが、HIV訴訟を支援、傍聴していただいている個人や団体、メモリアルキルトジャパンだったり学生の会だったり、そういう方々が参加してくださっている「支える会」の活動を、事実上取りまとめる束ねる役を弁護団で行なっていました。ニュースを発行したり、シンポジウムを開催したり、これも加藤さんが非常に熱心に取り組んでくださいました。

 その他、ここには書いていませんが、大臣協議、厚労省協議、政党ヒアリング等々にも弁護団が加わり、人数はその後減ってはいますが、今も参加を続けております。

 最後なんですけれども、弁護団は和解直後から新規提訴とか和解の代理人活動を行ない、それ以外にも今御紹介したような真相究明、恒久対策の活動を続けてまいりました。弁護団の活動の規模は徐々に縮小して、2011年に全員の和解が終了した後、その役割としては大幅に小さくなったと思います。

 また、大臣協議や医療協議、遺族交流会でも、もう原告団のほうで運営準備を十二分に行なっていただいて、今や弁護団の関与する場面は限られているんではないかというふうには思います。ただ、特に恒久対策の遺族班、医療班については、引き続き関わらせていただいております。

 弁護団として活動するのは1996年3月の和解成立から20年と想定していたわけですが、それが28年となり、一昨年、2024年ですね、弁護団の会計もいよいよ底をつくようになりましたので、今後は、個々の弁護士としての活動は継続するとしても、弁護団としての活動は停止し、個々の弁護士に対する活動の依頼は、あらためてその都度、原告団からしていただくことを申し入れ、確認させていただきました。ただ、それでもなお、今日の総会もそうですけれども、何かあったらこうやって弁護団のメンバーが集まって活動に参加しているわけです。

 私事ですが、和解の時、私は31歳でした。今、61歳です。30年後も弁護団でこうやって関わっているということについて、31の時は正直想像が及びませんでしたが、ここまで来ました。で、山西さんは当初から遺族班について、“遺族が一人でも居る限り僕は続ける”というふうにおっしゃっていて、すごいなと思っていましたけれども、30年経ったら、「たんぽぽの会」が解散するか、私が弁護士の仕事を辞めるか、どちらか早い方まで、私も関われるのじゃないかなと今は思っております。どうも御静聴、ありがとうございました。


                   (2026年6月28日に開催された「考える会」総会での講演を基に加筆修正したものである)​

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